2009年10月22日木曜日

ハロウィーン

もうすぐハロウィーン.家のまわりは不況風がふいているのか例年ほどの飾り付けは見られません.子どもたちも決して少なくない住宅地なのに...

子どもたちが仮装してお菓子を集めて歩く姿はとてもかわいらしい.でも、子どもたちだけでは暗い所は歩かせられないし、ということで親たちが車でついて歩く姿もめずらしくないし、明るいうちにやってくる子どもたちもいる,お菓子もラップが少しでもずれていたら食べないとか、何だか犯罪が増えるとともに皆が用心しなくてはならない時代になってしまいそれが悲しい.

でも、私はハロウィーンにはひどく疑問を感じている.日本でも何だか盛んになっているようだけれど.ハロウィーンのカボチャ,魔女、黒猫たちは確かにかわいいけれど、どうしてすぐにアメリカがやっているものに日本は飛びつくのかしら? その前にもう少し自分たちが持っているものを大切にすれば良いのに...

それはそれとして、アメリカでは肥満、糖尿病が国民に蔓延している.小さい子どもたちだって同じこと.普段はお菓子を控えているからハロウィーンの時だけ特別ね、ならよいけれど、あまいものの食べ過ぎ、運動をしない子どもたちにさらにその病気を悪化させるようなものをあげることにはひどく抵抗があるの.それなら鉛筆とかリンゴをあげよう、と思うけれど、子どもたちは全然喜ばないし、それなら何もしない方が良いのかもしれない、とも考え込んでしまう.

ピンポーンというドアの向こうにいる子どもたちがすごく太っているとしたらお菓子をあげること、ためらわない? ハロウィーンという形だけを見ていたら楽しそうでかわいらしいかもしれないけれど、それだけじゃかたづけられないのよ

2009年10月21日水曜日

地球にやさしく

私たちが毎日口にしているものに何が入っているのかわからない今日この頃、オーガニックフードという言葉が蔓延している感じ.健康に気をつければ医療費もかからないし無駄な薬も飲まなくてよいから私たちにとったらこれ以上良い話はない.

それでは地球に対しては私たちはいったい何をしているか... 私が住んでいる場所は車がなかったらどこにも行けない場所.スーパーだってとても歩いていけない距離にしかない.それでも車を使うことをできるだけ減らし、間違ってもアイドリングはしない.水だって大切にするし電気はこまめに消してエアコンなどもできるだけ電力を節約するように努力している.リサイクルは当たり前.

自分のこういう態度を人に押し付けることは良くないことはわかっているけれど、ドライブスルーでエンジンを平気でアイドリングしている人を見るとイライラさせられる.それでなくても肥満が問題なのだから車からおりなさいよ.と言いたくなる.

また、オーガニックの食べ物を扱うスーパーに高い車で乗り付けてオーガニックフードを買うのは良いけれど、レジでは紙袋をダブルでね、なんてお願いしている人たち、近づいていってポン、と頭を叩きなること、少なくない.
「エコバッグを使いなさいよ.ここでこれだけの食料品を買う財力があるなら99セントのエコバッグだって何枚も買えるでしょ!」 と心の中で怒っている私.

私の車の中はエコバッグがたくさんころがっている.ほとんどが自作.作るのは楽しいし、自分が気に入った生地で作れば持つのも楽しい.まして「かわいいわね」なんて言ってもらえたら有頂天.

冗談はともかく、一つしかない地球だから大切にしましょうよ

2009年10月20日火曜日

経験していないことはわからない

私の友人にお裁縫がとても上手な人がいる.ハロウィーンパーティーの時など彼女の腕の見せ所.去年は会社のコスチュームパーティーで優勝し、100ドルを獲得したと言う実力(?)の持ち主.それ以来、彼女の所には会社の上司たちから

「子どもが劇に出るのだけれどこういう衣装が必要なの.縫ってくれない?」
「こんなものが必要なのだけれど、作ってくれないかな?」と聞かれることたびたびだそうなの.まぁ、材料費やらとりあえず少しのお礼はいただけるらしいけれど、それでもいそがしい彼女にはかなりの負担になっているのは事実.しかし上司に頼まれるとすげなく断れない彼女.(アメリカ人でもこういう人少なくありませんよ.いやなものはイヤ、とはっきり言う印象があるけれど、やはり上司だとそうはいかないのが事実なんでしょう)

今回も上司の子どもの学校でのハロウィーンパーティーのための衣装を頼まれて頭を痛めている彼女.カソリックの学校に通う子どもは聖書に出てくる人物にならなくてはならない、ということで「ノアの方舟」の「ノア」になるらしいけれど、ひげと杖と白い洋服だけではだれだかわからないので、どうしたら「ノア」になれるか...と考え中.

縫い物をしない人は簡単に頼むけれど、実際に縫ったことがある人たちはそう簡単に人には頼まない.それは縫うことが結構大変なこととわかっているから.

スポーツ選手たちだって私たちが見ている姿は晴れ舞台だけ.その裏で彼らがどれくらいのトレーニングをこなして来ているかはほとんど垣間みることがないからどんなに苦しいトレーニングを重ねているかはわからないのよね.もし、実際に少しでもその苦しさを経験することができたら、自分勝手に人のことを批評する人たちが少しでも減るかも.

自分がやったこともないことをあたかも簡単なことのように評価したり判断することは慎むようにしたいものです

恋人からメールがすぐ帰ってくることを期待している人たちへ

こちらではテキストと呼ぶけれど、打ったら返事がすぐ返ってくることを期待する人が少ないことに驚くことしきり.そこまでヒマじゃないわよ.と言いたいけれど、それは言わずに「ごめん、他のことに気を取られていたから」というようにしています.もっとも私は結婚しているし、さしあたって主人もいそがしく仕事をしていますから返事がないからと言って別に何とも思いません.逆にすぐにメールがもどって来たら仕事からほされているかしら?とかえって心配になるくらい.

「私の彼はやさしいから私のメールにはすぐ返事をくれるの」と自慢しているあなた、ご注意を.返事をくれるのは他にやることがないからか、しなくてはならないことに集中していないか(できないか),もしくは自分に自信がないから.恋人である間は楽しいかもしれないけれど、それが結婚とかそういうことにつながるとしたらこれは結構問題ですよ.そうでしょ.

責任ある仕事を任せてもらえないからメールを打つヒマがあるとしたら,そういう人と結婚したい?

一見「優しさ」に見えるかもしれないけれど、その優しさって結局すごく表面的なこと.同時にそういう彼の注意を要求する自分の方にも問題があることに気がつこうね.恋愛中はいろいろ楽しいし、いっしょにいたいし,相手が自分のことを本当に大切に思っているか心配なのはよーくわかる.でも、人生一生恋愛だけでは生きていけないのよ.「一生彼を愛し続けます」と言い切るあなた、偉い! でもね、愛の形は変わると思う.人生山あり谷あり、メールがどうのこうのということがすごく小さく見える時が必ず来る.

何かの連絡に使うのはとても便利だけれど、メールにしろテキストにしろ一つ間違えると「よりかかりの関係」を作り上げてしまうよ.その関係のバランスが崩れた時に「あんな人じゃなかった」とがっかりするのだろうけれど、「あんな人」になったのは自分にもかなりの責任があることに自分も気がつかないのよ.だって相手によりかかっていたのだもの.

そして相手にメールを打ったらすぐ返事を要求するあなた、自分勝手な要求はそろそろやめる時期ではないですか? 他にやらなくてはならない大切なことがあるでしょ?

2009年10月18日日曜日

お互いに声を掛け合おうよ

ぶつかって来たのに何も言わずに通り抜けていく人.
ドアを開けておいたのに当たり前のような顔をして通っていく人.
「お早うございます」と朝のあいさつをしているのに無視していく人たち...

どうして一言くらい言えないのでしょう? 恥ずかしい? でも、何も返事ができない方が恥ずかしいよ. 気がつかない? これは問題.まわりのことに気がつけないということはどっちかというと脳細胞が活発に動いてないのではない? 動体視力が悪いのかもよ.

一言を言うだけで世の中がずっと明るくスムースに動くように思うのよね.「ごめんなさい」「ありがとう」「すみません」「こんにちは」「さようなら」これらの言葉を言うことがどれだけむずかしい? 最初はちょっとむずかしいと思うけれど、一度やってみると次が楽になり、その次はもっと楽になる.そしてきちんとあいさつしないと気分が悪く思うと思う.これは請け負う.あいさつすることの気持ちのよさを感じてほしい.自分も気持ちがよいし、してもらった相手も気持ちがよいと思うんだ.これは人間と人間の関係で基本でしょ? 言葉を使えるのは人間だけだよ.それができなくなるということはもしかしたら退化しているのかも.動物に近づいているのなら着飾る必要なんて全くないでしょ? 外見は人間、でも中身は動物に近くなっているなんて、考えただけでなんかおかしい.ほら、チンパンジーがかわいらしい洋服を着ていたりするじゃない.もしかしたらそれに自分が近づいているのかもよ.鏡を見てみたら?

そして、そうやって声をかけるということは「自分」と声をかけられた「相手」の1対1の関係ができ上がるということ.インターネットで無責任に書き込む一言とはまったく違うからね.ぜひ、明日から声を掛け合って.大きな声で.

自分を大切に

まわりからのプレッシャー、人目、見栄などが渦巻く私たちの世界.この中で「自分」を美羽しならずに生きていくのは本当に大変なこと.自分が何かをしようとすると心から心配してくれる人もいるかと思えば、ジェラシーから気持ちをくじけるようなことを言う人も入る.おもしろ半分に応援する振りをする人たちも入る.でも彼らはあくまでも他人です.何がおきた所でその人たちが責任を取ってくれるわけでもないし、その人たちをどんなに恨んだ所で結果はかわりません.そう、いろいろな選択肢がある中でその行動をとったのは「自分」なのですからね.

そのためには自分に自信を持たなくてはならないし、自信を裏付ける何かもなくてはなりません.虚栄の上に成り立っている自信なんてもろいものですし,かえって人を蔑む言動が見られたりして私たちの生活によい影響は与えません.

自分にとって何が一番大切なのか.それを守るためにまわりの人に迷惑をかけていないか.そしてまわりの言葉に振り回されていないか、もしそう言う傾向があるならそれはなぜなのか...その辺りをもう一度自分で振り返って解決する必要があるでしょうね.何事には原因があります.何かへのコンプレックスである場合もあるし、いやな経験がそうさせている場合もある.でもそういう殻から抜け出れなくては「自分」は見つかりません.

「自分探しの旅」という言葉がはやりましたが、「自分」というのが何であるか,またはどうあってほしいかがわかっていない人には出られない旅です.持っていないものを探そうとしても何を見つけたら満足感が得られるのでしょうね.

忙しい生活、数ばっかり多くてわけがわからないメル友に囲まれている自分から離れて自分がほしいものはいったい何なのか、ぜひ考えてくださいませね