2009年12月3日木曜日

ウィンカーを出すのは回りの人のため

どうも、最近ウィンカーを出すのを忘れているのか、面倒くさくて出さないのか、電球が切れるのがこわくてつけないのか、曲がるのにウィンカーがでていない車が多くても困ります.急に前の車がブレーキを踏むから何かと思うとその先で曲がっていく.スーパーの駐車場でも、ウィンカーがでていないからまっすぐいくのだろうと思ってこちらも発進すると急にすぐそこのあいている場所に車を入れようとしてくる.危なくてしかたがない.

自分がウィンカーを出すのも,出さないのも自分の勝手なんて発想がどうもまかり通っているような気がしてなりません.

通行人が自分がいきたい方向にすぐに方向転換するのならまだ、「ごめんなさい」くらいですむだろうけれど、車がゴッツンしてしまったらそうはいきません.警察を呼んで、保険会社に電話して、被害を見に来てもらって保険屋さんが折衝に走り、本当に大変.ひどい時には車を修理に出せるのに1ヶ月くらいかかる.しかもそれがクリスマスとかイースターなどの休みにかかったらもっと時間がかかるかも...

何のためにウィンカーを出すのか、運転免許のテストの時に理由を書かせてみるといいかも.自分の考えを書かせたらけっこう変な答えが出て来ておもしろいかも.

2009年11月30日月曜日

友だちを選ぶ

主人は仕事に疲れると人生相談をよむ趣味があります.昨日こんな相談がのっていることを教えてくれました.

たしか、その人は「自分の友だちが人のうわさ話、悪口ばかり言う人たちでつきあっていると疲れるから一緒にいたくない.自分で趣味のガーデニングをしていた方がずっといいけれど、そうすると友だちが一人もいなくなりそうでこわい」と相談していたように記憶しています.

価値観が合わない人を友だちに持つことほど不幸なことはないと言うのが私の持論です.自分が持っている価値観を曲げてまでつきあいたいとはあまり思わないだろうと思うし、つきあわなくてはならないのであれば多分ストレスがたまるでしょう.でも人間は一人で生きていけませんから、友だちをなくすことは本当にこわいことです.しかしそこで、逆に考えてみると、ここで言えば人のうわさ話、悪口を言う人たちとおつきあいをしていたらまわりの人たちからはこの人もそういう考えを持っている同類と思われますよね.そうしたら実際に自分がお友だちとしてつきあいたい人たちが避けて離れていっているかもしれないんですよ.自分で自分を誤解させている.ここは思い切って一人になってしまった方がまた新しいお友達に巡り会う機会も増えるだろうし、まわりの他の人たちがこの人を見る目が変わるのにと私は思いました.勇気がいることですが、長い目でみたらその方が自分に正直になれてハッピーに毎日を送れるのではないかしら?

長い間アメリカに住んでいると一人でいることがだんだん平気になります.なぜかとてもいそがしいアメリカ人たちなのでそうそう長々とランチやらお茶をする機会はあまりありません.自分でいかに自分の時間を有効に使うか、それがひどく得意になったように思います.逆に人付き合いが面倒くさくなっているかも、とときどき心配にもなりますが...「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですね

2009年11月29日日曜日

情報は上手に利用しないと...

日本に行った時に見た番組で、大学生の中にウィキペディアは誰でも書き込めるサイトであることを知らない学生がかなり多くいることを知ってびっくり驚き.あそこに書きこまれている情報を鵜呑みにしているとしたらそれは大変.書いている人の身元も何も知らないのですから,書かれていることにどこまでの信憑性があるかは疑問です.もちろん専門家の方も書かれているだろうし、良心的にきちんと調べた結果書き込んでいられる方も多くいられると思いますが、そうではない方の数だって少なくないはずですから、自分が受け入れる情報のフィルターは自分でかけなくてはなりません.

最近はグーグルやらask.com やらわからない時に使えるサイトが増えています.増えるのはよいことですが、自分で調べるくせがどんどん退化しているようでこわいです.脳の中で使わない機能は眠ってしまうのではないか、衰えてしまうのではないか、そんな恐れが私の中にはあります.だからできるだけ自分で調べる、しかしどうやって調べるか...オンラインに行ったのでは自分で調べていると言えるのでしょうか? プロがいるヘルプデスクに書き込むことがよいのか、本をよんで調べるのがよいのか...悩みます.時間がかかるけれど長期的には近道をしない方が自分のためなのかも.

先日こんな事がありました.私はMac Book を使っています.Snow Leopard にアップデートした時にそれまで使えていたグーグルビデオチャットが突然できなくなり大慌て.日本語と英語をチャットしながら教えている私にはとても大切な道具ですから.結局グーグルがマックの新しいOSに対処できなかったためにSafariではチャットができないこと.Firefox を別にダウンロードすることがわかり、ことなきを得ましたが、その前に日本のグーグルのチャットルームに行って事態を説明したのですよ.

「どうしてビデオチャットができなくなったか誰かわかる人がいませんか?」と.しかしもどって来た返事は、

「Snow Leopard はカタカナで書かない方がよいと思います.パソコンの環境のバージョンは何か教えてください」でした.

とにかく急いでいた私は、つい面倒くさくてカタカナ書きをしてしまったのですがそれが気にさわったのでしょう、でも、それは事態とはまったく関係ないこと.しかもSnow Leopard が出たばかりでアップデートした、と書き込んだのですからバージョンは一目瞭然のはず.ひどく時間を無駄にしたような気がしてぐったりしてしまいました.

これだけ膨大な量の情報があふれている現代、いかに上手に、そして手早く正確な情報をキャッチするのはとても時間とエネルギーがいるのではないか、と感じる今日この頃です.それなら自分で勉強した方が確実で後々のためにもよいかも.

お年賀状

「お年賀状は面倒くさいからお互いやめにしましょう」こんな会話を電車の中で耳にしました.そうね、お年賀状は確かに面倒くさいかも.特に頻繁に会っているお友だちにわざわざ書くなんて、と言う意見はわからないでもない.でも、年の暮れ、と言う1年に1度しか回ってこないこの時期.それに人生75年とすると75回.それも自分で自分の生活に責任を持ち始めてからだと約50回くらいしかこの時期は回ってこないのですよ.そう考えると1回1回を大切にしたい、と思いません?

年賀状と言ったって別に何をするわけじゃない.場合によってはその年の干支の印刷をたのんだり、もしくはプリンターでプリントアウトしたり、そうでなければスタンプ押したり、これと言って重労働ではないですよ.一言を考えるのが面倒くさいかもしれないけれど、これだってその辺の雑誌を広げたりインターネットに行けば一覧があるはず.それだけの作業を面倒くさいと言ったら面倒くさくないものはいったい何なの? と質問をしたくなります.

やはり、生活にメリハリを付けるのは大切.もう一度自分の生活、それから相手の人たちとのおつきあいを見直すためにもお年賀状、がんばって書きましょうよ.私たちはクリスマスカードを書きます.その人の表情を浮かべながらどうしているだろうと遠方の友人へ、そしてついこの間会った人にも「元気でね」と言う言葉を添えて.人間、当たり前のように生きていますが何があるかわからないのが現実なのですもの.さ、思い立ったが吉日.住所録の整理でも郵便局へ行くことでもかまいません.行動しましょうよ

2009年10月22日木曜日

ハロウィーン

もうすぐハロウィーン.家のまわりは不況風がふいているのか例年ほどの飾り付けは見られません.子どもたちも決して少なくない住宅地なのに...

子どもたちが仮装してお菓子を集めて歩く姿はとてもかわいらしい.でも、子どもたちだけでは暗い所は歩かせられないし、ということで親たちが車でついて歩く姿もめずらしくないし、明るいうちにやってくる子どもたちもいる,お菓子もラップが少しでもずれていたら食べないとか、何だか犯罪が増えるとともに皆が用心しなくてはならない時代になってしまいそれが悲しい.

でも、私はハロウィーンにはひどく疑問を感じている.日本でも何だか盛んになっているようだけれど.ハロウィーンのカボチャ,魔女、黒猫たちは確かにかわいいけれど、どうしてすぐにアメリカがやっているものに日本は飛びつくのかしら? その前にもう少し自分たちが持っているものを大切にすれば良いのに...

それはそれとして、アメリカでは肥満、糖尿病が国民に蔓延している.小さい子どもたちだって同じこと.普段はお菓子を控えているからハロウィーンの時だけ特別ね、ならよいけれど、あまいものの食べ過ぎ、運動をしない子どもたちにさらにその病気を悪化させるようなものをあげることにはひどく抵抗があるの.それなら鉛筆とかリンゴをあげよう、と思うけれど、子どもたちは全然喜ばないし、それなら何もしない方が良いのかもしれない、とも考え込んでしまう.

ピンポーンというドアの向こうにいる子どもたちがすごく太っているとしたらお菓子をあげること、ためらわない? ハロウィーンという形だけを見ていたら楽しそうでかわいらしいかもしれないけれど、それだけじゃかたづけられないのよ

2009年10月21日水曜日

地球にやさしく

私たちが毎日口にしているものに何が入っているのかわからない今日この頃、オーガニックフードという言葉が蔓延している感じ.健康に気をつければ医療費もかからないし無駄な薬も飲まなくてよいから私たちにとったらこれ以上良い話はない.

それでは地球に対しては私たちはいったい何をしているか... 私が住んでいる場所は車がなかったらどこにも行けない場所.スーパーだってとても歩いていけない距離にしかない.それでも車を使うことをできるだけ減らし、間違ってもアイドリングはしない.水だって大切にするし電気はこまめに消してエアコンなどもできるだけ電力を節約するように努力している.リサイクルは当たり前.

自分のこういう態度を人に押し付けることは良くないことはわかっているけれど、ドライブスルーでエンジンを平気でアイドリングしている人を見るとイライラさせられる.それでなくても肥満が問題なのだから車からおりなさいよ.と言いたくなる.

また、オーガニックの食べ物を扱うスーパーに高い車で乗り付けてオーガニックフードを買うのは良いけれど、レジでは紙袋をダブルでね、なんてお願いしている人たち、近づいていってポン、と頭を叩きなること、少なくない.
「エコバッグを使いなさいよ.ここでこれだけの食料品を買う財力があるなら99セントのエコバッグだって何枚も買えるでしょ!」 と心の中で怒っている私.

私の車の中はエコバッグがたくさんころがっている.ほとんどが自作.作るのは楽しいし、自分が気に入った生地で作れば持つのも楽しい.まして「かわいいわね」なんて言ってもらえたら有頂天.

冗談はともかく、一つしかない地球だから大切にしましょうよ

2009年10月20日火曜日

経験していないことはわからない

私の友人にお裁縫がとても上手な人がいる.ハロウィーンパーティーの時など彼女の腕の見せ所.去年は会社のコスチュームパーティーで優勝し、100ドルを獲得したと言う実力(?)の持ち主.それ以来、彼女の所には会社の上司たちから

「子どもが劇に出るのだけれどこういう衣装が必要なの.縫ってくれない?」
「こんなものが必要なのだけれど、作ってくれないかな?」と聞かれることたびたびだそうなの.まぁ、材料費やらとりあえず少しのお礼はいただけるらしいけれど、それでもいそがしい彼女にはかなりの負担になっているのは事実.しかし上司に頼まれるとすげなく断れない彼女.(アメリカ人でもこういう人少なくありませんよ.いやなものはイヤ、とはっきり言う印象があるけれど、やはり上司だとそうはいかないのが事実なんでしょう)

今回も上司の子どもの学校でのハロウィーンパーティーのための衣装を頼まれて頭を痛めている彼女.カソリックの学校に通う子どもは聖書に出てくる人物にならなくてはならない、ということで「ノアの方舟」の「ノア」になるらしいけれど、ひげと杖と白い洋服だけではだれだかわからないので、どうしたら「ノア」になれるか...と考え中.

縫い物をしない人は簡単に頼むけれど、実際に縫ったことがある人たちはそう簡単に人には頼まない.それは縫うことが結構大変なこととわかっているから.

スポーツ選手たちだって私たちが見ている姿は晴れ舞台だけ.その裏で彼らがどれくらいのトレーニングをこなして来ているかはほとんど垣間みることがないからどんなに苦しいトレーニングを重ねているかはわからないのよね.もし、実際に少しでもその苦しさを経験することができたら、自分勝手に人のことを批評する人たちが少しでも減るかも.

自分がやったこともないことをあたかも簡単なことのように評価したり判断することは慎むようにしたいものです

恋人からメールがすぐ帰ってくることを期待している人たちへ

こちらではテキストと呼ぶけれど、打ったら返事がすぐ返ってくることを期待する人が少ないことに驚くことしきり.そこまでヒマじゃないわよ.と言いたいけれど、それは言わずに「ごめん、他のことに気を取られていたから」というようにしています.もっとも私は結婚しているし、さしあたって主人もいそがしく仕事をしていますから返事がないからと言って別に何とも思いません.逆にすぐにメールがもどって来たら仕事からほされているかしら?とかえって心配になるくらい.

「私の彼はやさしいから私のメールにはすぐ返事をくれるの」と自慢しているあなた、ご注意を.返事をくれるのは他にやることがないからか、しなくてはならないことに集中していないか(できないか),もしくは自分に自信がないから.恋人である間は楽しいかもしれないけれど、それが結婚とかそういうことにつながるとしたらこれは結構問題ですよ.そうでしょ.

責任ある仕事を任せてもらえないからメールを打つヒマがあるとしたら,そういう人と結婚したい?

一見「優しさ」に見えるかもしれないけれど、その優しさって結局すごく表面的なこと.同時にそういう彼の注意を要求する自分の方にも問題があることに気がつこうね.恋愛中はいろいろ楽しいし、いっしょにいたいし,相手が自分のことを本当に大切に思っているか心配なのはよーくわかる.でも、人生一生恋愛だけでは生きていけないのよ.「一生彼を愛し続けます」と言い切るあなた、偉い! でもね、愛の形は変わると思う.人生山あり谷あり、メールがどうのこうのということがすごく小さく見える時が必ず来る.

何かの連絡に使うのはとても便利だけれど、メールにしろテキストにしろ一つ間違えると「よりかかりの関係」を作り上げてしまうよ.その関係のバランスが崩れた時に「あんな人じゃなかった」とがっかりするのだろうけれど、「あんな人」になったのは自分にもかなりの責任があることに自分も気がつかないのよ.だって相手によりかかっていたのだもの.

そして相手にメールを打ったらすぐ返事を要求するあなた、自分勝手な要求はそろそろやめる時期ではないですか? 他にやらなくてはならない大切なことがあるでしょ?

2009年10月18日日曜日

お互いに声を掛け合おうよ

ぶつかって来たのに何も言わずに通り抜けていく人.
ドアを開けておいたのに当たり前のような顔をして通っていく人.
「お早うございます」と朝のあいさつをしているのに無視していく人たち...

どうして一言くらい言えないのでしょう? 恥ずかしい? でも、何も返事ができない方が恥ずかしいよ. 気がつかない? これは問題.まわりのことに気がつけないということはどっちかというと脳細胞が活発に動いてないのではない? 動体視力が悪いのかもよ.

一言を言うだけで世の中がずっと明るくスムースに動くように思うのよね.「ごめんなさい」「ありがとう」「すみません」「こんにちは」「さようなら」これらの言葉を言うことがどれだけむずかしい? 最初はちょっとむずかしいと思うけれど、一度やってみると次が楽になり、その次はもっと楽になる.そしてきちんとあいさつしないと気分が悪く思うと思う.これは請け負う.あいさつすることの気持ちのよさを感じてほしい.自分も気持ちがよいし、してもらった相手も気持ちがよいと思うんだ.これは人間と人間の関係で基本でしょ? 言葉を使えるのは人間だけだよ.それができなくなるということはもしかしたら退化しているのかも.動物に近づいているのなら着飾る必要なんて全くないでしょ? 外見は人間、でも中身は動物に近くなっているなんて、考えただけでなんかおかしい.ほら、チンパンジーがかわいらしい洋服を着ていたりするじゃない.もしかしたらそれに自分が近づいているのかもよ.鏡を見てみたら?

そして、そうやって声をかけるということは「自分」と声をかけられた「相手」の1対1の関係ができ上がるということ.インターネットで無責任に書き込む一言とはまったく違うからね.ぜひ、明日から声を掛け合って.大きな声で.

自分を大切に

まわりからのプレッシャー、人目、見栄などが渦巻く私たちの世界.この中で「自分」を美羽しならずに生きていくのは本当に大変なこと.自分が何かをしようとすると心から心配してくれる人もいるかと思えば、ジェラシーから気持ちをくじけるようなことを言う人も入る.おもしろ半分に応援する振りをする人たちも入る.でも彼らはあくまでも他人です.何がおきた所でその人たちが責任を取ってくれるわけでもないし、その人たちをどんなに恨んだ所で結果はかわりません.そう、いろいろな選択肢がある中でその行動をとったのは「自分」なのですからね.

そのためには自分に自信を持たなくてはならないし、自信を裏付ける何かもなくてはなりません.虚栄の上に成り立っている自信なんてもろいものですし,かえって人を蔑む言動が見られたりして私たちの生活によい影響は与えません.

自分にとって何が一番大切なのか.それを守るためにまわりの人に迷惑をかけていないか.そしてまわりの言葉に振り回されていないか、もしそう言う傾向があるならそれはなぜなのか...その辺りをもう一度自分で振り返って解決する必要があるでしょうね.何事には原因があります.何かへのコンプレックスである場合もあるし、いやな経験がそうさせている場合もある.でもそういう殻から抜け出れなくては「自分」は見つかりません.

「自分探しの旅」という言葉がはやりましたが、「自分」というのが何であるか,またはどうあってほしいかがわかっていない人には出られない旅です.持っていないものを探そうとしても何を見つけたら満足感が得られるのでしょうね.

忙しい生活、数ばっかり多くてわけがわからないメル友に囲まれている自分から離れて自分がほしいものはいったい何なのか、ぜひ考えてくださいませね

2009年10月15日木曜日

近所の店を大切に

最近はオンラインショッピングやら大型ディスカウント店などで買い物をする機会がどんどん増えている.価格も手頃だし、便利だし、ということでついそういう店を利用してしまうかもしれないけれど、ちょっとそこで考えて.

その手の店が氾濫するということは小売店、ご近所でよく買い物をしていた小さいお店がどんどん閉じていくということ.「だって、あそこの店高いんだもの」「種類がないんだもの」まぁ、いろいろ理由はあるだろうけれど、小さな店の価格が高いのは当たり前.種類だって在庫を抱える限度があるから種類が豊富ではないのは仕方がない.でもね、本やさんで立ち読みができなくなったら寂しくない? 本の内容をパラパラ見られなくなったらつまらないでしょ? 

私は本屋さんのあの雰囲気が好きだから、絶対になくなってほしくない.だからオンラインで買うことの方がどちらかと言うと多いけれど、近所の本屋さんでも買うようにしている.地元のCD屋さんでがんばっているのを見ると、応援したくなる.「安い」が必ずしもよいわけではないのよね.買い物がオンラインだけになってしまったらひどく味気ないものになりそう.さわったりお店の人と面と向かっておしゃべりができなくなるんだもん.これは便利さが生んだ弊害の一つだと思う.この不景気の中、少しでも節約しなくてはならない生活だけれど、心のゆとりと言うか暖かさを与えてくれるご近所の店をぜひ大切にしましょうよ

2009年10月14日水曜日

原因があるから結果がある

最近、私たちはまわりにおきている事態を見て「かわいそう」「気の毒に」「どうしてだれも何もしないのか」なんていう報道をよく見かける.しかも何もしない方がまるで悪の権化のような言い方で.確かに気の毒でかわいそうな場合も多々あるのは事実.しかし、どうしてその人たちがそうなったのかについてはあまり誰にも伝えられなくない? どうかな?

ちょっと前に日本で問題になった(今でも問題かな?)ニートの人たちの職がなくなってしまった話.職がなくなり住む場所、食べるものに事欠くようになってしまい炊き出しの人たちとかが出たとか、政府は何をしているのか、という怒りの声とかニュースで流れたのをオンラインで読んだけれど、そこでふと思った.対症療法は確かにその人たち救済のために必要かもしれないけれど、その人たちがそう言うことになってしまった原因についてはあまり触れられていない.

「かわいそう」「気の毒に」と思う気持ちはもちろん大切.人間である限り忘れてはいけない感情.しかし、それだけではダメだと思う.「なぜそう言う結果を招いたのか」をあらゆる角度から考えなくては片手落ち.ニートを選んだのはだれかな? ニートをすることを誰かが強いたのかな? そのとき家族はどうした? ニートを雇った側は景気が悪くなった時にはニートから首を切られることをきちんと説明したか?(本当は、私はここは書きたくなかった.というのは、景気が悪くなる可能性があることも、そう言う時に解雇されるのは正社員でないことくらい知識として持っていないことが信じられないから)

何にでも原因と結果がある.結果ばかり見て騒ぎ立てたら同じような結果が次から次へと表れる.こんなことだれだってわかっていると思うけれどどうもわかっていない人たちが増えているみたいだからあえて書きました

2009年10月13日火曜日

うわさ話は大嫌い

暇な人が多いな、とよく思うのは集まっては人の「うわさ話」をしている方達を見る時です.しかもだいたい「悪口」が多い.「○○さんがどうだ」「××さんの家でこんな事があった」まぁ、よくもつきることなく同じようなことをくり返しくり返し話せるものだと感心しごく.

要するに時間がを持て余している証拠? そんなことない? 気晴らし? 家事、子育て、仕事に毎日追われているからその気分転換が「うわさ話」.そうなのかなぁ.まぁ、そうおっしゃるのならそれはそれよいですが... 本当にそんなに分刻みの生活をしているのですか? 

私が「うわさ話」が嫌いのなのは無責任な会話の集まりだから.根も葉もない場合もあるだろうし、尾ひれがついていることも.さらには思い込みの言葉などなど... 情報交換という面では必要な時ももちろんあるけれど、どこまで信頼できる情報なのか...それを見極めることができますか? 「誰々さんがいったから」「誰々さんに聞いたから」こんな枕詞がついていることの方が多いようにお見受けしますが... 

人間集まるとうわさ話になるのですかね.アメリカ人だって大好きですよ.ただ、忙しく働いている人たちは本当にその時間がない.その時間のなさと言ったら凄まじいですよ.パソコン、ブラックベリー(携帯兼パソコンのような電話です)を使いこなし夜中まで仕事をしているのですからね.そういう人たちを見ていると「忙しくて〜」と言いながらうわさ話をしている人たちが信じられなくなる...

2009年10月12日月曜日

将来につながる愚痴にしてください

まわりにいません? 愚痴ってばかりの人とか、文句ばかりの人、悩み事ばかりの人、いつまで立ったも同じようなことのくり返し.最初は気の毒に思ったり、大変ね、と同情して一生懸命相談にものるしアドバイスもできたら、と思うけれど、こちらが言っていることを聞いているのか聞いていないのか、次回あう時もまた同じような悩み事のくり返し.この間私が考えに考えて話した言葉はいったいどこにいってしまったのやら..

これが2回、3回と続くと「もしかしたらこの人悩むことが趣味なのでは?」「誰かにかわいそうね、と言ってもらいたいだけ?」とつい言いたくなる...いけない,いけない,この人だってつらいんだ.と思ってイライラしてくる気持ちを抑えて話を聞いてまた「こうしたら良いんじゃない?」「こういう方法もあるわよ」と言ってみるけれど、だんだん真摯さがなくなっていく自分に気がつく...だって,どうせ私が何か言ったって聞いていないのか、忘れてしまうのか、また同じことを次の時のもひたすら聞くはめになるんだもんね、と開き直り状態.

もし、自分で悩むのが好きな人、どうぞ他の人を巻き込まないで.つらいこと、悲しいことがあって相談する時にはぜひ、もらったアドバイスを行動に移してみるとか、せめて今の事態が少しは前進するような努力をすることをお願いします.自分では気がつかないかもしれないけれど、結構こういう人多いんです.というより本当に悩んでいる人はつらすぎて人に言えないのではないのかな...

「自分」に溺れている人たち

最近のニュースを読んだり見たりする時に気になることがたくさんあります.それは非常にたくさんの人が

「自分」「自分の権利」「自分は正しい」という観点からものを見ていること.他の人の意見を聞こうとするようで実は全然聞いていない.自分が聞きたいことだけを選んで聞いているからいつの間にか自分のまわりは「自分が聞いていて心地よい」人たちで固められている.こんな風潮がいつの間にか始まっている.

人の意見を聞けなくなったら人間としての進歩は止まってしまう、というのが私の考え.たとえ異なる意見でもとりあえず耳を傾けてみると「なるほど」と思う所もたくさんあるはず.それを最初からシャットアウトしてしまうのでは「自分」の幅は広がらず成長できません.

しかも自分と違う意見を聞かないどころかまるでその人が悪い人かのように悪口を言う人たちまであらわれたりしてね.とにかく他の人の意見に耳を傾けましょう.耳を傾ける、ということはその人たちの言いなりになることではないですよ.とりあえず意見を自分の中に取り入れてそこで考える.考えてみて「なるほど、こういう考え方もあったのね」と受け止める.そこが始まり.

特に自分が「悲劇のヒロイン、ヒーロー」になっている人にこの傾向が多い.自分が聞きたいことだけを聞くものだから、だんだんまわりも面倒くさくなって同じことしか言わなかったり、離れていったり.だから残るのは「烏合の衆」です.

自分のまわり、もう一度見回してみてください


いろいろブログを試したけれど、結局このブロガーが一番使いやすく,見やすいということでここに落ち着きました.